正直、自分が写った写真を見るのは好きじゃない。端的に可愛くないからである。鏡で見ている自分とギャップがあると言えばいいのだろうか。鏡の中にいる自分は超かわいいまではいかなくともまぁまぁである。ちゃんとメイクすればそれなりに見えて、よし!といった具合だ。それでも写真というのは残酷で、だいたいなんか嫌な感じ。
だけど全部が全部嫌いなわけではない。とくに友人が撮った私の写真は結構好きだったりする。結局は撮り手との関係性が切り取る一瞬の表情に表れているだけかもしれない。別に橋本環奈のように写っているわけではないが、楽しそうなのだ。
そもそも私は外見の美醜に対してそれほど厳しいこだわりを持っているわけではない。笑顔で写っている人はすべからく素敵に見えるし、結局は人と人なので見た目以上に気が合うとか一緒にいると楽しいとかの方が勝ってくる。ほとんどの人はだいたい何かしらかわいらしくて魅力的に見えて、けれどこれが自分には適用されないのは、私は私であり他人ではないからかもしれない。他人なら気にならない、むしろチャームポイントになるような細部が気になる。しみじみブスだなぁと思う。
山内マリコの短編に「さよちゃんはブスなんかじゃないよ」がある。主人公のさよちゃんは自分はブサイクに生まれて、そのせいでいじめにあって、性格も臆病にねじ曲がってしまったと語る。うつみ宮土理のパパのように自分の目を見て「可愛い、可愛い」と言ってくれる人がそばにいれば自分も彼女のように”ケロンパ”の愛称で呼ばれる愛嬌のある人になれたかもしれない、と嘆く。それでも現実は変えようがないので、せめてもの慰めにさよちゃんは自分を萩尾望都の『イグアナの娘』になぞらえ、自分にとって自分はどうしようもなくブスだけれど、誰かにとっては美少女に見えているのかもしれない……と思い込むことにした。そして妄想のうつみ宮土理のパパに言ってもらうのだ、「さよちゃんは可愛い。さよちゃんはブスなんかじゃないよ、ほんとだよ」と。
だれかに撮ってもらった自分を見て、なんだか少し期待外れで落ち込んだ時に、私はこの物語を思い出す。私はさよちゃんのようにいじめられたことも、面と向かって容姿を批判されたこともない。どちらかと言えばさよちゃんが羨ましく思う側の環境にいて、それはつまり実際可愛いわけではないけれど可愛い可愛いと言ってもらって今の今まで過ごしている。それでも私が私を批判するのだ。スマホの液晶に写る私を指さして「ちっとも可愛くない、ブスだね」とささやくのだ。
私が私を見てブスだと思うことは紛れもない事実である。しかし友人や恋人や親が私を可愛いと言ったこともまた、事実なのである。しかし自分を批判する声はたとえ自分の中から生まれた声であっても大きく響き渡って私を苦しませ、不安がらせる。
さよちゃんは物語の最後、ブサイクであるという辛さがきっかけで知り合った恋人と別れ、相変わらずブスのまま、それでも誇り高くショーウィンドウに映る自分に向かってこう声をかける。「さよちゃんは可愛い。さよちゃんはブスなんかじゃないよ、ほんとだよ」と。
だから私も自分に言ってやるのだ、「ブスなんかじゃないよ、ほんとだよ」と。