9月/10月前半雑記

落ち着いた良い日が続いている。気持ちもそんなには焦ってないし、音楽も聴ける。あったかいお茶を飲みながら窓の外をぼんやり見つめる余裕があって、空を5分割する電線を眺めるのが子供のころから好きだったことを思い出した。本屋で本も立ち読みできる。

なぜか忙しくなった9月後半と10月一週目を乗り越えたので、すこし振り返りでも書こうかな。

福岡に一人旅

自分への誕生日プレゼントとして福岡へ。初日に訪れた六本松エリアが好みにぴったりと合って、自分が楽しいと感じる場所を見つける嗅覚がいつのまにやら鍛えられていたことに少し感動した。amuhibi knitのお店を訪れ、ROWANの毛糸たちを眺める。どれも絶妙な温かみのある色合いで、それ相応のお値段がするけれどもせっかく一着編むならこの毛糸で編みたいと思うわせるものだった。しかしその場では買わず、一旦情報だけ持ち帰り。なぜなら私はまだ一着編めるほど棒針編みが得意ではないから。残念。

一人で知らない街を歩いていると、何もなくても大丈夫な気持ちがしてくる。どこまでも行けるような気持ちになるし、実際行けてしまうのだろう。私は旅行中も無理して深夜まで起きていたり夜に繁華街に出ていくようなことはしないので、17時頃にはさっさと銭湯に行きホテルに帰って近所のお肉屋さんで手に入れたピリ辛チキンやコロッケを夕飯にぼんやりテレビやYouTubeを見ていた。結局は自宅の部屋でやってることと何ら変わらないのだろうが、なじみのない場所でやるいつも通りの夜は、寂しさや悲しさや焦りとは少し距離ができて心地よい。なにより『完全なひとりきり』というのが素晴らしい。

琵琶湖博物館

以前行ったことのある守山市図書館に行くついでに、パートナーが興味があると言うので行くことに決まった琵琶湖博物館。これが予想外に広く、おもしろくて、最近は人に会えばすぐここに行くことをおすすめしている。水生生物は琵琶湖だけあって淡水に住む生き物のみに限定されており、ナマズオオサンショウウオが多く登場する。海遊館のような派手さを求めるなら違うが、岩陰にこっそり隠れるように呼吸する2メートルほどのオオサンショウウオをようやく発見したときは、あまりの大きさと迫力に二人でしばらくずっと笑っていた。おそらく目玉であろうビワコオオナマズの水槽は少し前にガラスが大破してしまったそうで展示は休止中だったけれど、それはそれで「このサイズの水槽が割れるのか」となかなか面白かった(割れた当時の写真が貼られていて、本当に水浸しになっていた)。

それとなぜか一匹だけアザラシが飼育されていた。展示スペースを覗いたときは重たげに眠っていたのでわからないが、館内の柱には芸の練習中である旨とyoutubeチャンネル、そしてキラキラとした目をこちらに向けたアザラシの写真に「がんばるぞ!」と吹き出しの書かれたポスターが貼ってあったので、おそらく芸も頑張っているのだと思う。

生駒でスリランカ料理

生駒に夜ご飯を食べに行った。往々にして動き出しが夕方なので着くころには必然的に夜ご飯を食べることになるのだが、私としてはナイスだったと思う。スリランカ料理店『森のレストラン ラッキーガーデン』は席の半分以上が屋外にあり、小さな個室が点々としているキャンプ場のようなお店だった。一番人気のカレープレートは二種のカレーと様々な副菜が乗っており、全部がおいしかった。屋外で食べる非日常感もさることながら、今回は焚火の前を選んだので暖かいし炎を眺めているのも落ち着く。マシュマロも焼けるらしい。めちゃくちゃ気に入ったのでもう一度行きたいが、今回は車で訪れたため、電車だとどの程度行動しづらいのかが計りかねるのがネック。車、運転できるといいんだけどね……。

お店に周辺施設の案内チラシも置かれていて、どうやらその一帯で盛り上げている様子。他にも気になるところの多い場所でした。生駒ってたのしいね。

外側から見ると

2週間ほど仕事やら旅行やらでとにかく家にとどまらない生活を切り抜けて、この数日はやたら穏やかに過ごしている。心配事はもちろん頭に浮かんでくるし、楽しくてなんでもやってやる!という気持ちになっている時ほど楽しくあってはいけないと自分を縛るように不安がわざわざ顔を見せてくるのは相変わらずで、それでも今日はうまくやり過ごしていると思う。

そしてこうやってあったことを書いて客観的に見てみると、楽しそうに過ごしているではないか。良かった。安心した。

穏やかに過ごす日ももう少し前までは数か月に一日だけ訪れる極稀な日であったけれど、最近は頻度も継続日数も増えた。もっともっと楽しく生きていたいと思うのは高望みかもしれないが、いい日も悪い日もそういうもので人間として普通なのだと思える環境に来られたこと自体がうれしい。

 

ところで最近もう、そんなに書くことがない。文章を書くことに少々飽きたような気がする。やりたいこともあり、勉強することもあり、人と会って楽しんだり打ち合わせしたり、かと思えば一人になってバランスをとったり、私の毎日はもう十分に十分なのかもしれない。

ブスなんかじゃないよ

正直、自分が写った写真を見るのは好きじゃない。端的に可愛くないからである。鏡で見ている自分とギャップがあると言えばいいのだろうか。鏡の中にいる自分は超かわいいまではいかなくともまぁまぁである。ちゃんとメイクすればそれなりに見えて、よし!といった具合だ。それでも写真というのは残酷で、だいたいなんか嫌な感じ。

だけど全部が全部嫌いなわけではない。とくに友人が撮った私の写真は結構好きだったりする。結局は撮り手との関係性が切り取る一瞬の表情に表れているだけかもしれない。別に橋本環奈のように写っているわけではないが、楽しそうなのだ。

そもそも私は外見の美醜に対してそれほど厳しいこだわりを持っているわけではない。笑顔で写っている人はすべからく素敵に見えるし、結局は人と人なので見た目以上に気が合うとか一緒にいると楽しいとかの方が勝ってくる。ほとんどの人はだいたい何かしらかわいらしくて魅力的に見えて、けれどこれが自分には適用されないのは、私は私であり他人ではないからかもしれない。他人なら気にならない、むしろチャームポイントになるような細部が気になる。しみじみブスだなぁと思う。

山内マリコの短編に「さよちゃんはブスなんかじゃないよ」がある。主人公のさよちゃんは自分はブサイクに生まれて、そのせいでいじめにあって、性格も臆病にねじ曲がってしまったと語る。うつみ宮土理のパパのように自分の目を見て「可愛い、可愛い」と言ってくれる人がそばにいれば自分も彼女のように”ケロンパ”の愛称で呼ばれる愛嬌のある人になれたかもしれない、と嘆く。それでも現実は変えようがないので、せめてもの慰めにさよちゃんは自分を萩尾望都の『イグアナの娘』になぞらえ、自分にとって自分はどうしようもなくブスだけれど、誰かにとっては美少女に見えているのかもしれない……と思い込むことにした。そして妄想のうつみ宮土理のパパに言ってもらうのだ、「さよちゃんは可愛い。さよちゃんはブスなんかじゃないよ、ほんとだよ」と。

だれかに撮ってもらった自分を見て、なんだか少し期待外れで落ち込んだ時に、私はこの物語を思い出す。私はさよちゃんのようにいじめられたことも、面と向かって容姿を批判されたこともない。どちらかと言えばさよちゃんが羨ましく思う側の環境にいて、それはつまり実際可愛いわけではないけれど可愛い可愛いと言ってもらって今の今まで過ごしている。それでも私が私を批判するのだ。スマホの液晶に写る私を指さして「ちっとも可愛くない、ブスだね」とささやくのだ。

私が私を見てブスだと思うことは紛れもない事実である。しかし友人や恋人や親が私を可愛いと言ったこともまた、事実なのである。しかし自分を批判する声はたとえ自分の中から生まれた声であっても大きく響き渡って私を苦しませ、不安がらせる。

さよちゃんは物語の最後、ブサイクであるという辛さがきっかけで知り合った恋人と別れ、相変わらずブスのまま、それでも誇り高くショーウィンドウに映る自分に向かってこう声をかける。「さよちゃんは可愛い。さよちゃんはブスなんかじゃないよ、ほんとだよ」と。

だから私も自分に言ってやるのだ、「ブスなんかじゃないよ、ほんとだよ」と。

 

www.gentosha.co.jp

 

ハーフパンツを買った!

ハーフパンツを買った!無印の赤いやつである。店頭で見つけて、Mサイズはもう赤しか置いていなかった。紺は趣味じゃないからまあいいやという感じ。他にデニム地のも置いており、そっちはマネキンが着ていてやたら魅力的に見えた。洒落てるし、デニムって何にも考えずに着れて楽だよね。しかしみんな同じことを思うんだろうな、サイズがSとXLしか残っておらず試着は断念した。でも良いのだ。私はこの三色のなかでは一番赤が素敵だと思ったから。

試着室で履いてみるとやっぱりとにかくよく似合った。なんで赤色が一番人気がないのか謎なくらい素敵に映っている。みーんな無難なものが好きなのだな、使いやすいし失敗しないものな。でも私は明るい色を選んじゃうもんね!似合うし。ふんふん。パンツの形も丈もちょうどよくて足の太さも大して気にならない。ゴキゲンに試着室の外に出て確認しようとカーテンを開けると、隣の試着室に入っている男性の連れの女性が目の前に座っていた。げ。そっとカーテンを閉めて避難する。私は一人で服を買いに行くのも試着するのも、試着した後の姿を店員さんに見せてあーでもないこーでもないと言うのもどれも平気なのだけど、自分の年齢と近い綺麗げな女性が近くにいるとどうにも居心地が悪い。率直に恥ずかしいのだ。なんでかはよくわからないけど、そうなのだ。電車で隣に座っていようがエレベーターで二人きりになろうがそれは一切かまわないが、試着室という普段よりももう一歩内側に入ったような空間で対峙するとダメなのだ。普段は服で大事に守っている己の大切な弱みや柔い部分が、試着室にいると水ようかんのようにプルプルしたものでしか守られていないような気がする。中心のあんこが透けて見えており、なんか嫌だ。わがままだが一刻もはやく去ってほしい。大きい鏡で自分を見たい。

自意識の問題なだけな気がするが突然けろっと平気になるものでもないので、しかたなくカーテンで守られた試着室で息をひそめ、隣の人が出ていくのをじっと待つ。さながらかくれんぼのようである。静かに聞き耳を立てる。隣の会話が終わり、カーテンが閉まる。しばらく布のこすれる音がして再度カーテンの開く音がした。かかとを靴にねじ込む摩擦音が聞こえ、男性が店員さんに服のお戻しを頼む声が聞こえてようやくほっと息をついた。よしよし。満を持してカーテンを開け、大きい鏡で見ためを確認する。やっぱりよく似合っている。それに涼しい。家にはデニムの長ズボンかスカートしかなく、この猛暑のなか通気性の悪いそれらを履くのはつらくてずっと「ハーフパンツほしいなぁ」と思っていたところにいい出会いがあった。かわいいかわいい買おう買おう。

こうして私は赤い素敵なハーフパンツを購入し、意気揚々と今日も履いている。陽にいっこも焼けていない真っ白な足がズボンの裾から不健康に伸びているが問題は何もない。良いよい。

ところで私は去年までハーフパンツなんか履いたら太い足が見苦しくてやっていけないと思っていた。服の中で体が泳ぐようなゆったりしたワンピースも、私が着たら着ぶくれて似合わないと思って着なかった。しかし今年はどうだろう、どちらも買って気に入って着ている。風が通り抜けて涼しく、どちらもよく似合っている。夏の暑さは去年も今年も変わりなく災害級で、にもかかわらず去年の私は暑いのを我慢しながら長ズボンやタイトな服を着ていたわけである。見られることを過剰に気にしていたのだ。そこには服とも夏の暑さとも違う息苦しさがあったはず。でもそんなことはもう覚えていない。忘れてしまった。もちろん他人に見られることが全く気にならないわけではない(試着室の気まずさは別!)が、私の中でだいぶと規模が縮小してくれたようである。うれしいことだ。

私の見た目を私の知らない誰かが笑っていたとして、知ったことではない。私の足が太くても誰の人生にも影響しない。何にも問題などない。恋人と、友人たちが褒めてくれているので、私は間違いなくかわいいです。何を着ていても!

上手にターンもできないや

暇だと頭の中がうるさい。何かしないといけない気がするし、だれかと連絡を取っていないと世界から切り離された気がする。数年前までそんなことなかったのは働いていたこともあるけれど、そのころはまだtwitterが元気に栄えていて、趣味の人たちとなんだかんだ交流が盛んだったことが大きかったと思う。離れていて顔も知らないけれど、同じノリを共有できる誰かがそこにいることは、ひとつのコミュニティとして十分に機能していた。

その頃に知り合った人たちとは会って話したり、出かけたり、いろいろな繋がりとして今も残っている。もちろん住んでいる場所の違いで一度も会ったことのない人もいるけれど、やはり私の中では○○さんとしてきちんと覚えている。しかし、盛んにコミュニケーションをとっていたころに比べると、私のTwitterはずいぶん下火だ。そもそもSNSとして度重なるアップデートで使い勝手が微妙に悪くなっていることも理由の一つなのだろうが、一番はみんな年を重ねたことだと思う。生活があるから、18や20歳そこそこのころに比べると積極的にタイムラインに顔を出さなくなった人が多い。それはもちろん、私も含めて。このことに対して悲しいとかはあまりなく、むしろそんな変化を知れるほどに長くお互いをネット上で知っているということ自体が面白いと感じる。とは言え、すっかりおとなしくなった私のタイムラインはもう、いるだけで誰かにかまってもらえるような場所ではなくなったのも事実だ。

となるとやはり、現実の方で新しいコミュニティに入るしかない。ずっと一人で平気ならいいけれど、私はそうでもないからだ。でも毎日連絡を取ったり会ったりするのは厳しい。友達なら月に一回、数時間話せたらベストで、それ以外はそこまで積極的にはなれない。でも毎日一人だと、冒頭でも言ったように世界から切り離されたような気になってしまう。我ながら面倒くさいが、これを解決してくれるのが職場だ。頻繁に人と顔を合わせるけれど、それほど深く入り込まれずに済んで、軽く雑談ができればもう十分なのだ。本当に新しい職場が決まってよかった!このまま求職しているのに決まらず、一人家で毎日を過ごしていたとしたら、メンタルの不調は一生治らない気がする。仕事が決まってよかった!まあ、アルバイトなんだけどね!へへ!

新しい環境に身を置くのは緊張するけれど、楽しみでもある。新しい友達出来たらいいなーと思いながらしばらく出勤する予定だ。職場の人くらいの距離感が心地よいと言っておきながら友達を作ろうとしているのは矛盾しているようだけど、あんまり固くならずにそれくらいラフに構えているのが良いのだと思う。

面接でよく「あなたの強みはなんですか」と聞かれた。そのたびに私は仕事に役立ちそうな自分のスキルや長所を答えていたけれど、実際は「自分が必要としている物事を見極めて、新しい場所に飛び込んでいくこと」だと思う。職業訓練に応募したことも、一人で初めてギャラリーに行ったことも、人からの誘いを断らないで受けてみたことも、そのおかげで多くの人と知り合えて全部結果的に良い判断だった。そうやって気になることにあちこち手を出して試してみることを、人によっては「何がしたいのかわからない」と評価されたこともある。けれどその寄り道は全部、私に必要だからいいのだ。

というわけで来月から、新しい環境に身を置いてみようと思います。どんな人がいて、私はそこでどんな風にふるまうのでしょうか。金銭的に不安なことはまだまだあるけれど、無理せず、居心地よく過ごせる場所が良い場所なのだと思います。

無理なもんは無理

めちゃくちゃ調子を崩している。

もともと何に対しても敏感で神経質気味な性質の私だけど、なんかもう最近はとにかく輪をかけて調子が乱高下している。季節の変わり目で気温も上下しているし、それに合わせて私の自律神経も逆立ちして踊り狂っているとしか思えないくらい安定しない。いい加減にして……。

ストレスになることも多い。自己実現ができてない、と言えばなんだか高尚な感じがするが、要は仕事の面接に落ちまくっている事が主な原因な気がする。面接に落ちる→働かなきゃ!という焦り→とりあえず目につくもの全てに応募(混乱)→楽しくない面接、といった具合の日々をもう3ヶ月ほど繰り返している。1番の問題は“とりあえず目につくもの全てに応募“という点だ。働かなきゃ!と焦りまくった結果、興味関心を捨て置いてとにかく可能性があれば応募ボタンをぽちぽちぽちぽち。結果、志望動機もへったくれもない、事前準備もあったもんじゃない即興の、ただただ面倒で怠いだけの面接に励む事になる。これが実は結構、私の気持ちを圧迫しているようだった。別にそれほど興味もなくやる気もない面接を受けると、取り繕ったところで向こうもそのどうでも良さを何となく感じるのだろう、落ちてしまう。すると「また落ちた!働かなきゃいけないのに!とにかくどこでも良いから受かりたい!受かって楽になりたい!」という焦りがスライムのように私を包み込み、とにかく安心するためにまたアレコレときちんと検討もせず求人に応募してしまう。するとまた全然気持ちの乗らない面接を受けて……この負のループが、あり得ないほど辛いのだ。

それに、マジに「働かなきゃ!」と思っているならその必死さで掴み取れば良いにも関わらず、「でも興味ないしな〜なんかな〜」とテキトーにやってしまう。これじゃ良い結果はついてこないだろうな。

こんな感じで負荷がかかりまくった結果、つい先日、恋人の家で倒れ込むように体調不良になり自宅に連れ帰ってもらう羽目になった。おそらくあれはパニック発作か何かだと思う。それから数日経ったが未だに呼吸がしづらく、心臓のドキドキが邪魔して上手く眠れず、体が緊張しているのを感じる。ここまでならないと自分の不調を無視し続けることを今更思い出し、どうしたものかと頭を抱えているところだ。今振り返ると先週の時点で疲れると咳が出る症状が数ヶ月ぶりにぶり返し、歩いていても落ち着かず手をブラブラ振ってしまうとか、人と電話で話すのがキツいなぁと感じたりだとか、服を仕舞えず部屋がどんどん荒れたり、食事が面倒で献立を考えるのも厳しいな〜と感じていたりしていて、ここまで色々起きていたら気づけよ……と思うのだけど、渦中にいると「いや、でも以外と上手くやれているな」なんて馬鹿なことを考えていたりするのだ。難しいねー。

というわけで今週は、ぶよぶよのスライムに包まれながら応募した乗り気じゃない仕事の面接をひとつずつ断っていた。しかし面接辞退の連絡を入れながらも、ある意味で成長したなぁと実感したり。私はこういう時、大体はキツイ体を引きずってでも無理やり受けるか、連絡も入れず面接に行かないかの二択だった。後者は本当に、本当に申し訳ないのだと分かりつつも、「無理です、と言えば怒られる」という恐怖心に中々打ち勝てずやらかしていた。「体調が悪い」だとか「できない」「無理です」と言うことは相手の不機嫌を生むことだ、という思考から抜け出すのは中々難しかった。なのにキチンと辞退メールを入れている。えらい!このくらいで!でも、えらい!いやー、すごいすごい。この選択をちゃんとできるようになったのはたぶん、今のバイト先の影響だ。アルバイト先である学習塾では、スタッフも生徒も「できない事はできないと伝える」という方針で、とにかくキチンと話せば対応してくれるのだ。例えば、疲れていたり機嫌の悪い生徒には「今日はあんまり勉強できないから、これだけならできます」と交渉するように話したり、宿題をやってこない子には叱るというより「できないままでも持ってきてほしい。そうすれば先生も、どれだけの宿題ならあなたはこなせるかを見て調整するから」とちゃんと対応してくれる。もしかしたら世の中の多くの人にとって、これは当たり前なのかもしれない。けれど、こんな風に指導してもらった事がなくてとにかく無理をするか逃げるの二択しか持っていなかった私には、まさに目から鱗だった。やさしい。やさしくて誠実な、この子どもたちが大人になってからもきっと彼ら自身を守ってくれる指導だと思った。無理なことを無理だと言う、勉強よりもずっと必要な力だ。というわけで私も、無理なことは無理だと言っても良いのだ、言おう!とコソコソ決心し、帰宅後に「これってすごく大切だよね!」と鼻息荒く恋人に話したのだった。

生徒にもらったゾウ。最高。

しかしながら私は一体、あちこち欲張って無理して頑張っても何も身にならないどころか、やたらに消耗させるのだ…ということを、あとどれくらい繰り返したら心の底から刻みつけるように理解できるんだろうか。とりあえず今は頑張りたいと思う事だけ頑張って、あとは無理だと言ってしまおう。

というわけで冒頭に戻るけども、自律神経がおかしくなっているのか、ブタクサ花粉が私に悪さしているのかもよくわからないので、とりあえず内科と精神科に行きます。通院をサボったツケですね。はい。

山に登ってきた

昨日初めて山に登ってきた。山とはいえ、山頂まで往復一時間ほどしかかからないハイキングコースだ。服装も登山口までの自転車を最優先した軽装で、靴も履きなれたアディダスのスニーカー。トレッキングシューズや専用のバックパックなんかがあれば楽なのだろうけど、ないのでそんな感じ。

私は普段山に近づくことはあまりなくて、というのも子供のころに学童のキャンプで草だか虫だかに大いにかぶれたことがあるからだ。だけども去年あたりから「いきなり本格的な登山は絶対無理だけど、ハイキングコースとかをのんびり歩いてみたい」と思っていて、昨日は思い立ったが吉日、グーグルマップで家から一番近く、コース距離が短く、初心者でも達成感が味わえる山を探してみたのだった。するとちょうどあつらえ向きの山があるではないか!登山口までは自転車で結構かかるけども、普段も往復20㎞ くらいは漕ぐからたぶん大丈夫だろう。そうと決まればリュックにタオルを入れ、水筒に淹れる用の紅茶を煮出し、体温調整ができるように半袖シャツの下に長袖シャツを重ね着て、太陽サンサンの中、家を出発した。

登山口につくと、ちょうど年配のご夫婦が入山の準備をしているところだった。天気もいいし、ちゃんと人がくるんだなぁなんてよくわからない目線で感心しつつ、入山。山の中は木がある分ずいぶん涼しくて、それまでの自転車タイムの方が太陽に照らされるわアスファルトからの照り返しがあるやらなんやらでよっぽどしんどかった。水辺の近くは蚊のような虫が耳元を通り過ぎる度にプーンと音がする。じんわり汗をかくので首にタオルをキュッと巻いた。子供のころはそういう、首にタオルを巻くとかそんなことが何だかダサくて本当に嫌いだったのに、いつのまにかダサさより機能性を平気で優先させるようになっているな…とぼんやり思う。気にならない、というのは生きていくうえで少しだけ呼吸が楽になるコツみたいなものなのだろう。あとそういう人はかっこいい。

しばらく進むと坂道から丸太で土留めされた階段が増えてきた。少し疲れるけど、いい感じ。それに多少しんどくても歩き続けている方が立ち止まるよりもずっと楽なので、適当なペースで登る。そんな私を横目に、地元の高校生くらいのクラブチームの男の子たちが続々駆け上がっていく。すごい!私は平たんな長距離走ですら嫌いなのにこの子たちはこの足場の悪い山道を当たり前みたいに走っていくのだから。何回も何回も登っていたら私も平気になるのかな。そうなる前に完全に心が折れそうだ。

階段のわきには草が生い茂っていて、歩くたびに小さな何かがカサカサっと逃げていくようだった。虫かな?何かな?と正体をつかめずにいると、いました!カナヘビが!階段のわきに一匹。すると上にも一匹、さらにその周辺にも一匹。一匹見つけると目が慣れたのか次々足元で草を揺らしている犯人を目撃した。大人になってからカナヘビやトカゲやイモリに出くわすこともほぼなくなって、この間家でヤモリを見かけて少し感動したくらいだ。かわいい。子どものころはよく捕まえて手の中に閉じ込めながら通学路を歩いたのだけど、今もそこらへんにいるのかな。山の中ではあちこちから顔をのぞかせていて、ちゃんといるところにはいるのだなと安心した。最近家の近所ではあちこち木が切り倒されて土の地面がアスファルトに覆われてしまっているから、きっと身の回りではもう見られないのだろうな。

シダっぽい植物が多く生えているゾーンに入り、ここは恐竜が出そうだから写真を撮っておこう、なんて思っていると「この先山頂」の看板が見えた。さらに急こう配になった階段を上がると、今回の目的地である山頂に到着!晴れて雲も少なく、遠くまで大阪と京都の街を見下ろせる。ここから見えるあの山が六甲山、あっちが愛宕山、と書かれているテーブルを参考に景色を眺めて、ひとまずフムフムとうなづく。思ったよりすぐに登れてしまい、少し物足りない気分だ。でも私はここから下山し、さらにまた自転車に乗って帰宅しなければならないので、欲張らずに今回はここまでと決めて、ベンチでおにぎりと紅茶で一息ついた。虫がそこそこ飛んでいるから、虫が嫌いな人は落ち着かないのかな。それとも虫の少ない都会のビルなんかで出くわすから気持ち悪く感じるのであって、山の中はそういうものだなと割り切れてしまうものなのかなとぼーっと考える。よし、下山だ。

下りは足を滑らせないように気を付けながら歩く。こういう足元の悪い下り坂はお盆に乗せたお茶がこぼれないよう運ぶみたいに歩くと良い、と先日教えてもらったばかりの教訓を思い出し、イマジナリーお給仕でのんびり下る。ほかの登山客とすれ違う時は一応挨拶はするのだけど、相手からも返ってくるかは半々。こんにちはーと挨拶したはいいものの返事が返ってこないと何だか恥ずかしくなって、次にすれ違う人には言うか迷い、空気の読み合いで挨拶できないこともしばしば。それでも一人で登っていた細身の、サングラスがかっこいいおじいさんは私をしっかり見て挨拶してくれてとても良かった。次に向かいから30分前に登山口で見かけたご夫婦がやってきて「もう山頂までいったの?元気だねー」と声をかけてくれた。あの一瞬で覚えてくれてたんだ!と思い、少しうれしくなった。

そして登山口まで帰ってきた。私の横を爆速で走り抜けていった高校生たちがもう帰る準備をしている。すごいスピードだ。私の5倍くらい元気。1時間ほどかけて往復したけれど、午前中に家を出発したこともあり、下山してもまだ昼過ぎだった。このまま真っすぐ帰宅してもいいけれど、せっかくいっぱい運動したんだからもう少し何かしていたい。というわけで途中に銭湯があるのを知っていたので入って帰ろう。ついでに畳のところでボーっとしていこう。

こういう一日を過ごすことは正直珍しい。私は基本面倒くさがりで大抵の事を躊躇するので、だいたい同じ日々を過ごしてしまう。散歩が好きだから散歩したり、お気に入りのサイクリングコースを走ったり、ひたすら動画を見たり。でもそうやって同じルーティーンに安心するときもあれば、そのせいでバッドに入ってしまう時もある。朝起きて、なんとなく悲しみの気配を遠くにでも察知したら、その時はいつもと全然違うことをやるのが悲しみお化けから逃げる一つの手段なのかもしれない。昨日はうまく逃げ切れた。程よい疲れが心地よくて、大きなお風呂では頭を空っぽにして湯舟を楽しめたし、家に帰ってきてからも落ち込む余裕はあまりなかった。楽しい一日だった。次もどこかの山に登るかもしれない。結局はタイミングの問題なのでもっとずっと後の話だろうが、それでも一つ、選択肢が増えてよかった。

今回は一人で登ったので誰かと登るのもまた違う面白さがあるんだろうな。まぁ、また今度だね。

自分のことを無視するなという話

何について書こうかな~最近全然更新してなかったからブログどころか文章をどうやって書いていたかも忘れてしまった。

3月ごろから転職活動をしてみて、でもそれも1か月頑張ったので休憩ということにした。最終面接までいったくせに入社希望日を1か月後で回答したりして落ちたりもした。本当のことを言うと、突然きちんとした会社で週5勤務なんてできる気がしないし、嫌だ嫌だと思いつつ、働け!と自分の社会性が大声をあげるのでどうにか面接もこなしていたけど、もうほんとに嫌。全然企業で働きたくない!

だからって収入源があるわけでもないし、普通に貯金を切り崩して生きているからドキドキだ。ハローワークの職員さんに「ご飯食べれてる?」と心配されたりしたけど、まともに働いていたころの私はめちゃくちゃ堅実なのでしっかりお金をためていた。数字が減るのが嫌いで恐怖すら感じていたので、まだ全然生きられる。たぶん。あんまり余裕こいてるとダメだけどね。

さて、どうやって働くか考えものである。私はやけにこだわりが強い性格なので、まず「嫌だ」と感じたことを仕方ないと思ってやることが全くできない。逆に好きだと思えば限界まで頑張るので厄介だ。それで体調を崩したし、私はもとから体があまり強くない上に、双極性障害もある。というわけで転職活動で重視していたのは圧倒的にワークライフバランスだったのだけど、ここを重視すると楽しそうと感じない職種を選ぶことになるようで、「私事務職って全然興味ないし好きじゃない!」と最近ようやく認識した。あーマジでつまんなそう。自分の存在価値を疑いだしそう。そう思うってことは、合ってないんだろうな。

やりたいことと自分にできることがマッチしている職業が自分に合う仕事ですよ、みたいなのを表にしたやつを高校生の時に見せられた記憶があり、それを今思い出している。それでいうと私はものづくりが得意でそういう仕事をしたい(してきた)という、得意なこととやりたいことがマッチしているラッキーな例なのだけど、いかんせん「きちんとした企業に勤めるのが良いこと」という思考が消えない。高校生の頃の友人たちはみな優秀というか、そういう意味では良い大学に入り、大手企業に勤め、順調にキャリアを重ねている。そういう子たちしか見てこなかったから、私の世界で私はいつも少し落ちこぼれだった。でも実際は、内勤ではなく接客業の友人もいるし、アルバイト掛け持ちで生活してる子もいる。新しく知り合った人たちの生き方は本当に様々だったし、だとすると「とりあえず生きられるように働いてみる」っていう考え方は悪くないと思った。

そういえば去年、友人たちと出かけた際、「とりあえず興味のあることをアルバイトでもいいからしてみてしばらく生活しようかなと思ってるんだよね」と相談してみたことがある。反応は結構あんまりな感じで、特に向かうはバリキャリ!という感じの友人は、はっきり口には出さないけれど否定的な理解できないという雰囲気だった。本当はその日、いろいろ考えていることを相談しようと思っていたのだけど、怖くなってやめた。何も彼女が悪いのではなく、私たちが気づいたら全然別の場所に来てしまっていただけの話である。仕方ない。

転職活動をする中で実は一社内定が出ていたのだけど、行くかどうかかなり迷っていた。迷っているということは行きたくないということだと本音ではわかっていながらも、何の気なしに恋人に話してみると「結局はあなたが行きたいかどうかだよ。あなたは今なにをしたいの?」とめちゃくちゃ当たり前なことを言われた。何がしたい……。私はいつも「何が食べたい?」と聞かれてもわからない人だから答えに困るかと思ったけれど、案外すぐに「服を作ってみたい」と答えていた。じゃあこの前見に行った服飾学校に行かなきゃね、と言われ、まぁそこに行く気は全然ないんだけど、でも自分が何をしてみたいと感じてるのか客観的にとらえる良いきっかけにはなったと思っている。

少し話は逸れるが、私はPodcastをたまに聞く。その中でも『となりの雑談』という番組が好きだ。雑談の人、桜林直子さんとコラムニストのジェーン・スーさんが毎回テーマとも言えないような、なんてことないけどみんなこういうことに悩んだり気にしたりしてるよね、ということを雑談する番組。私はこれを去年から時々聞いている。その桜林さんが昨日SNSで、「どの街のどんな家に住んで何を食べて休みの日にはどこに行きたいか、その理想の生活をぜんぶ叶えて仕事はついででいいよ。という話をした。」と投稿していた。要は「わたしはこれをしたいからする」と自分で決めて選ぶ経験をしないと何をしても人のせいにしてしまうよ、という話で、別に仕事なんかテキトーでいいんだよということではない。でもその通りだと思った。というのも私は自分の機嫌が悪くなったりイライラする理由をなんとなく知っていて、一つは疲れていて眠いのに上手く眠れないとき。そしてもう一つは、自分のしたいように選べないとき。後者は初めはおとなしくしているのだけど、だんだん自分を自分の自由にさせてやれていないことにムカついてきて、最終的に「私は他人にばかり従いたくない!私の好きなようにしたい!私は私のものなのに!」とこらえがたい不快さに包まれる。私は私の言うことを聞いてやれていないとき心底不快なのだ。転職活動中いやだいやだと思っていた理由はこれだと思う。「わたしはこれをしたいからする」と納得できずに転職活動をしていたのだ。

私の好きにさせろ~!と怒っていたのは何も今に始まったことではなく、今まで何度も経験していたのだから、もうそろそろ忘れないでほしい。私はさみしいからと恋人に執着してしまっている時の自分が耐えがたいほど嫌いだし、どれだけ楽しくても友人と会ってばかりいて自分一人で外を出歩く機会がなくなってしまうとかなりストレスを感じる。誰かに自分の軸や時間を預けすぎていると感じた瞬間にそれに耐えられなくなる人間だということを、もう忘れないでくれ。同じ轍を踏みすぎ。いい加減にしてください。とりあえず生きていければいいから、私は私のしたいことをしてください。たのしく暮らしたいね!

切り株の上に乗ってみたくて乗ってみたやつ

最近よく聞くnever young beachのMVを貼っておきます。また時間作って最近行ったところとかまとめます。

youtu.be